転職エージェントはぐきの、キャリア逆転ブログ

Fラン大から奇跡の大手WEB広告代理店に新卒入社。今はCreateA合同会社で転職エージェントやってます。日常のこと、就活のこと、キャリアを逆転するための方法などを書いていきます。

【2004年7月13日】7.13水害により僕が被災を経験した話

 あれから10年経っていた事に今更気づいた。時が経つのは早いものだ。2004年7月13日、僕の住んでいる新潟県長岡市中之島(旧:中之島町)は豪雨により川が決壊し、洪水に見舞われた。本日は当時中学2年生だった僕が体験したリアルな被災体験について語ろうと思う。

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※写真は水害当時の中之島

孤立した中之島中学校

 2004年7月13日、激しい雨の音で目覚めると、外は豪雨により足首くらいまで水が溜まっていた。雨がよく降る新潟県ではごくごく稀にこのような事があるので、特に気にせず「学校休みじゃねぇーのかよー」なんて言いながら母親に車で送ってもらって登校したのを覚えている。

 いつかは止むと思っていた雨は一向に止む気配がなく、お昼頃、親が迎えに来れる人のみ早退となった。僕の家は両親共に働いていたため迎えに来る事が出来なく、早退していく友だちを羨ましく思いながら学校で友だちと遊んでいた。この時はまだ事の重大さに気づいていなかった。

 数時間くらい経って教師達があたふたしてきて「やばいんじゃね?」みたいな空気が出てきた頃、担任の教師が教室に入ってきてテレビをつけた。テレビでは中之島町が大洪水とニュースで取り上げられており、友だちの家が屋根だけになっていた。この時本当に一瞬思考が止まった。その友だちを見てみると友だちも固まっていた。恐らく目の前の映像が現実なのか整理がつかなかったのだろう。僕の家もその友だちの家の近くなのだが、「これは夢だ」と自分に言い聞かせ、現実を受け入れようとしなかったのを覚えている。

校長先生がいない・・・・。

  気づいたら学校の周りはヘリコプターに囲まれ、僕の中学校が「孤立した中学校」というタイトルで全国ニュースに取り上げられていた。学校の周りは海になっていた。まだ現実感の沸かない僕はヘリコプターに向かって呑気に手を振ったりしていたと思う。(子供って本当にすごい・・・。)教師達も大混乱していて、少しづつ事の重大さに気づいてきた。

 しかし、なぜか校長先生の姿が見えない。一番忙しいと思うのだが、一度も姿を見せていない。昔から校長先生のことをろくでもないやつと思っていた僕はこっそりと教室を抜けだして校長室を覗きに行った。気づかれないように扉を少し開けて中を覗くと、プロジェクターを使い部屋一面を覆うデカイ画面で相撲を見ながらフカフカのソファーでくつろいでいた。町が1つ崩壊するほどの大洪水が起きている中、フカフカのソファーに座り大画面で相撲を見ている校長先生の神経が信じられなかった。僕の「校長はろくでもないやつ」という読みは当たっていた。

中学校にお泊り

 自衛隊がヘリコプターでご飯を運んできてくれて、なんとか夕食を食べることができた。確か具なしのおにぎりと具なしの味噌汁が一人1つづつだったと思う。文句を言いながら食べた記憶がある。夜はそのまま教室で寝泊まりすることになり、みんな机とかくっつけてベッド代わりにしていた。楽天的で落ち着きのないバカな僕はまだ事の重大さがわからなく、「お泊り会だー!!」とか言ってワクワクしていた。当時流行っていたハリポッターの呪文を夜通し叫んでいたら先生に呼ばれて別室に連れて行かれた。さすがにいつも鬼な教師もこの時ばかりは呆れていた。こんな時にはしゃいでいるバカは僕だけだった。

一瞬にして僕の町が無くなった。

 雨も止み、自宅へ帰ることが出来るようになってから、親戚の車に乗って自分の家に帰った。この時まではまだ現実だとは思っていなかった。心のどこかで自分の家だけは奇跡的に助かっていると思っていた。(いい加減気づけよ・・・。)実家に帰ると、そこはまさに地獄だった。町は変わり果て、ボロボロになった家の前で長靴を履いて泥まみれになっている母親の姿があった。

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※写真は僕の家の近くの神社

 漫画の世界に入ったみたいだった。一瞬にして僕の町が無くなった。母親の絶望した顔を見たら、昨日までの浮かれた自分を殴りたくなった。母親はパート先の定食屋で働いている時に川が決壊し、2階に避難して救助を待ったらしい。外の様子を見ながら死を覚悟したと話していた。救助隊がボートで助けに来てくれなんとか助かったらしい。三条市に住む僕の祖父は、屋根の上に避難し、ヘリコプターで救助されなんとか助かったと数日後に聞いた。とにかくそのくらいやばかった。

 それから数日後、全国からボランティアの人が駆けつけてくれ、復興作業が始まった。数週間に渡る復興作業は本当にキツかった。ボランティアに来て頂いた方には本当に感謝しきれない。

 食料は近くの公民館にコンビニのご飯が集められ、被災者は自由に貰って行っていいことになっていた。きちんと列をつくって並んでいる町民を見て、アメリカ人の英語教師が「ありえない!!アメリカだったら略奪が起こってるよ!!」とか騒いでた。

悲惨だった被災生活

 僕の家は一階がほぼ崩壊していたため、二階での生活を余儀なくされた。国からの補助金は雀の涙程度しか出なく、庶民の僕の家はお金を用意出来なく、一年くらい二階での生活を余儀なくされた。夏が特にひどかった。水害によって運ばれてきた泥は汚物を多く含んでおり、とてつもなく臭かった。ゴキブリもたくさん出て、寝ていると僕の上をゴキブリが走り抜けたりすることもあった。冬は冬で床が全て剥げているため、直で外の冷たい空気が入ってきてものすごく寒かった。キッチンも壊れていたためお弁当での生活をしていた。当時の母親は本当に大変だったと思う。(特にうちは単身赴任で父親がいなかったので余計に)

当時を振り返って

 子供って本当に不思議で、どんな過酷な場所でも必ず楽しみを見つける。とても不謹慎だが、中学2年生だった当時、被災という過酷な生活をすごく楽しく過ごしていた覚えがある。今あのような体験をしたら立ち直れる自信がない。当時の母親は本当に辛かっただろうなと今になって思う。

 当時の復興作業の経験を活かし、3.11東北大震災の際には気仙沼にボランティアに行った。その話はおいおいどこかで書こうと思うが、大人になって被災者の方と話して初めて、当時の出来事がいかに辛いものだったか知った。色んな人に助けられたお陰で楽しく過ごすことが出来たのだとわかった。

 

 水害も中越地震も経験し、被災ばかりしている僕だが、楽しい思い出のまま、このまま一生災害が起こらないでいて欲しい。もう耐える自信はない。